今回は、不朽の名作である映画『タイタニック』を、この歳になって改めて観賞し、終盤のシーンで人生観について考えたことを綴っていこう。
そもそもタイタニックという映画は実話に基づいて制作されたもので、タイタニック号という豪華客船が座礁し、沈没するまで出来事を題材にしている。
乗り合わせた男女のラブロマンスを描き、出会いと受難、協力と別れをダイナミックな演出と共に描く映像は、今もなお色褪せることなく愛されている。
今回注目したいのは、終盤も終盤。まさに沈みゆく船体の上で、それぞれの乗客がとった行動や選んだ死に様についてである。
まさに沈んでゆく船で、迫り来る死を前にして、不安や恐怖に迫られたときに人の本性が見てとれるのである。
ブランデーを飲む男
おそらく上流階級であろうこの男は、混乱の最中ブランデーを持ってきてくれと人に注文をつけ、付き人と共に酒を傾ける。
死を前にして、せめて自分が好きな物と共に散りゆくのか、気晴らしか、酔いに身を任せるのか。 おそらく、私もこれを選ぶだろう。 なんて思いながら観ていたが、そこには上流階級であるが故の見栄も見え隠れする。
最期の時まで格好つけて終わりたい。
強がりでもそんな死に様でいたい。
逃げることなく、優雅な時の流れを感じているかのように振る舞う。
それもまた1つだろうと思う。
古き良き昭和の男性が、介護を拒否するのは、このような心理もあるのではないか、なんて思う。
楽器を奏でる者達
元々パーティ用の楽団として、おそらく雇われて乗船してしまった彼らは、仕事先で”殉職”するなど、想像もしていなかったであろう。
乗客がパニックを起こさぬよう、甲板で演奏をしてくれ。
沈没する未来が目に見えた時でさえ命令され、数人で弦楽器を演奏する。
人のことより自分のことを。なんて精神であれば出来ない業である。
慌てふためく人々が行き交う中、それでも演奏を続ける彼らも、とうとう1人が自分達も避難するためにと解散を呼びかける。
そこで数名の楽団は一度解散するものの、彼はもう一度バイオリンの弓をとる。
すると解散したはずの仲間たちは集まり、再び音楽を奏でた。 そこには、やらされる側から望んで行う側への転換点があるのではないか。
やれと言われてやる業務から、自らの命を燃やして取り組む生業へと姿を変える。
自らのいのちの終わりを悟ってもなお、人のため、あるいは自分の最後の存在価値のために一心不乱に楽器を奏でるその姿からは学ぶべきものがあるのかもしれない。
今でもふと、そう感じる。
犠牲の上に生きている。
沈没に向かう最中には、人の命を蹴落としてでも、自分が助かろうとする者もいる。 まさに主人公の目の敵となった男がそうである。
贔屓を受けようと乗務員を金で釣り、助かろうと救命ボートにすがる者達を足蹴にし、自分が助かるために他人の子どもを盾にして、なんとか一命を取り留めようと試みるのである。
もちろん、タイタニック号に乗り合わせていない我々が客観的に見れば、絵に描いたようなヒール役として他人事にとらえるかもしれない。
しかし本質はどうだろうか。 なんて考えてしまうものだ。
科学の進歩や歴史の発展は、多くの犠牲の上にこそ成り立っている。
フグを食べて死んだ者が居たからこそ、我々は迂闊にそれを口にせず過ごしているし、戦争で多くの命を失ったからこそ、先人達は命の尊さを説いたのである。
現代の我々の生活は、どれほどの犠牲の上に成り立っているのであろうか。 そこには何一つとして、当たり前などではないのである。
少し前のニュースで、タイタニック号を見学するための潜水艇が遭難し、水圧で潰された船体が見つかったそうだ。 皮肉を交えて言うのであれば、ちょうど彼らと近しい体験が出来たのであろう。
だが、ここで言うべきは、無謀だとか迂闊だとかそんな話ではない。
望んでいる景色や野望のためなら、時に命をなげうつ覚悟で物事に取り組む姿勢は称賛すべきである。 まさに”命がけ”の挑戦である。
それが成功するのか、失敗するのかは結果論であり、後の話だ。
その上で、自分の”命がけ”はどんな人達の犠牲の上に成り立っているのか、どれほどのコストがかかっているのか。 それを考えると、日々の生活を感謝と共に過ごせることだろう。
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